國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を読んだ
哲学 - 暇と退屈の倫理学
友人に勧められてから、数か月後にようやく読了できました。単純にページ数が多くて大変でしたが、各ページはサクサク進む感じで読みやすかったです。 印象に残ったフレーズを幾らか取り上げてみたいと思います。
消費と浪費
まず印象的であったのは、消費と浪費の区別でした。 消費は際限がないものであるから延々と繰り返されることになり、結果として満足することがないという点で悪質です。 対して浪費は、限界があるからいつかは満たされることになり消費よりも幾ばくか健康であると結論付けられていました。 そして現代はこの消費の論理が、いたるところで支配的であることが大きな問題でしょう。 ボードリヤールのアイデアを引用して明瞭に説明がされていましたし、何より我々がこの肌身で実感していることですから、その考えに納得するのは秒読みでした。 前提として、消費の何が悪であるのかを認識できたという意味で有意義でした。
「だから余暇はもはや活動が停止する時間ではない。それは非生産的活動を消費する時間である。」
細やかな実践として、YouTube Shortを辞めて、Twitterも(イベントの公式アカウントの運営などを除いては)辞めてみると、 驚くほどに身が軽くなりました。 自分の日常の事柄を発信することは一定の繋がりを提供してくれますが、同時にそれは鎖にもなります。 ああ呟いたのだから、こうしなければならないといった柵や、誰々に反応しなきゃといった面倒くさい仕事が減りました。 人の動向やオンライン状況を気にする必要がない生活は非常に気楽で良いです。 あるいは、人間の叡智の結晶であるアルゴリズム様の選りすぐりの煽情的なニュースたちとも決別できました。 これもやはり、心の健康に取って重要であるように思えます。 誰がどんな“悪事”をしたのかなんて、一生に一度聞けばよいような話です。 消費の構造を理解して、自分をできるだけ消費のサイクルから切り離すという試みはそう悪くないように思えました。 これからも実践してみたいと思います。
自由の王国
マルクスが晩年に提示した自由の王国の概念も印象的でした。 彼は欠乏と外的有用性によって決定される労働を止めて、自由の王国が実現されねばならないと述べました。 欠乏と外的有用性を根拠としないならば、どのように労働をすればよいのでしょうか。 彼はこう述べました。
「各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでもすきな部門で、自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全般を統制しているのである。」
文中でも述べられているように、このアイデアは余暇を生きる上で重要なものだと思います。 評論をしたからと言って、評論家にならなくても良いというのは、やはり何かに縛られず自由に生きる術として重要なように思えます。 そしてマルクスは、この自由の王国の根幹が労働日の短縮であると述べました。 自由は抽象的な精神状態ではなく、時間的条件に依存します。 必要労働が生活の大部分を占める限り、人間は必然の王国から脱却することができません。 逆に言えば、社会的生産力の発展によって必要労働時間が短縮されるとき、はじめて人間は自己目的的活動へと踏み出すことができるのです。
したがってマルクスの自由概念は、怠惰の肯定ではないと受け取ることができます。 むしろそれは、人間の多面的能力を全面的に発揮できるような社会条件の構想であって、 そこでは活動は自己の外にある強制からではなく、内的な関心と共同的な調整から生まれます。 この思想はとても魅力的なように思えます。
人間の正気
ハイデガーの退屈の形式についての論じた章の、次の一節もかなり共感できました。
「そうするとやはりこう考えずにはいられない。人間の生徒は退屈の第二形式を生きることではないか、と。あるいは、退屈の第二形式を生きること、それこそが人間の『正気』ではないか、と。」
ここで言われている「退屈の第二形式」とは、単なる暇や時間の持て余しではありません。 それは、何か特定の対象が退屈なのではなく、世界全体がどこか空虚に感じられるような状態を指しています。 目の前の出来事に決定的な意味が見いだせず、それでいて時間は確かに流れている。この宙吊りの感覚こそが第二形式の核心です。
ハイデガーは退屈を三つの形式に区分し、とりわけ第二形式において、人間が「世界の全体性」と向き合わされると分析します。 この言語化が非常に明瞭で意義のあるものでした。 何かが退屈なのではなく、あらゆるものが等しく無関心に沈んでいく。 このとき私たちは、日常的な忙しさや役割からいったん引き離され、自分が何に向かって生きているのかを問わざるを得なくなります。 だからこそ、退屈の第二形式を生きることが「正気」ではないかという指摘には重みがあるように思えました。 多くの場合、人はこの空虚さに耐えられず、何かに没入し、何かに従属し、何かの役割に自分を固定させることで安心を得ようとします。 しかしそれは、自分の奥底から響いてくる問いをかき消すための振る舞いでもあります。 対して第二形式がもたらすのは、そのような対象的退屈を超えた、存在そのものへの開示です。 そこでは「何をすべきか」という実践的処方箋は与えられません。 ただ、世界の意味づけが宙吊りにされるという経験だけが残る点が非常に厄介です。
したがって重要なのは、退屈を排除することではなく、それを経験の一形式として認識することなのかもしれません。 退屈を単なる怠惰や時間の浪費と見なすのではなく、人間存在が自己と世界の関係を問い直す契機として捉えること。 この視点を得るだけでも、日常の感覚は大きく変わるとこの本を読んだ時から感じています。 どう生きるべきかという答えは、ここから直接導かれるわけではありません。 しかし少なくとも、退屈に覆われた時間が単なる空白ではなく、存在が自らを露わにする場であると理解できたことは、大きな収穫だったように思えます。