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Kafka『変身』を読んだ

ドイツ文学 - Kafka

 最近本屋に行って、岩波文庫の棚を眺めていたら『変身』が目に入ったので買いました。 有名ですから、なんとなくあらすじは知っていましたが、ちゃんと読んだのは初めてでした。

 主人公グレゴールが毒虫になったときの反応についての違和感とそれに対する考察、心理描写がかなりリアルだということ、うつ病の寓意として受け取れるということの3点を話したいと思います。

(2/23追記.母が興味を持ったのでこの作品を貸してしまった...。なんか気まずい...。)

違和感

 まずなんといっても一文目からインパクトが絶大でした。

「グレゴール・ザムザはある朝、なにやら胸騒ぐ夢がつづいて目覚めると、ベッドの中の自分が一匹のばかでかい毒虫に変わっていることに気がついた。」

 この一文目はかなりの衝撃と重みがありましたが、同時に我々に違和感も与えます。 主人公グレゴール・ザムザはどうして悲しんだり怒ったりせず、冷静さを保っているのでしょうか。 彼はその後もずっと、淡々とこの事実に疑問を持たずに受け入れます。錯乱しているからか、はたまた異なる理由からか、グレゴールは優先順位の置き方が我々読者とは大きく異なっていました。 彼が感じていた焦りや不安は社会的評価や義務不履行に対してであり、自信が毒虫になったことは一切前提として受け入れていたのです。 これがまず一つ目の大きな違和感です。

 この『変身』はある一点を除けば、非常にリアリスティックな筆致でたんと毒虫をかかえる家族の様子を描いています。 その様子がSFとして非常に評価でき、人々を惹きこむのだと思いました。 その一点とは、抵抗です。 本当にこの出来事が現実に起こったならもっと医師や行政の介入、あるいは工夫を凝らして毒虫を観察しコミュニケーションを取ろうとする試行錯誤があるはずです。 しかし、物語の家族らは抵抗をするのではなく受け入れて絶望をしていました。 これも大きな違和感です。

 こういった違和感に答える方法はいくらかあるように思えますが、まずつまらない解答としては、Kafkaが不条理を前提とした世界を描き出す作家だからでしょう。 ですがここでは、彼が虫になったこと自体は些細なことであったからだという理由を提示してみたいと思います。 すなわち、彼が虫になったことは彼の長い変化の最後の1ピースであって、見た目の変化はもはや彼にとって些細であったからだと考えてみたいと思います。

 グレゴールは現代でいう社畜のような暮らしをして自分を犠牲にしていました。 大金を稼いで家族全員を養い、父の借金の返済すらしていたにもかかわらず、家族からは感謝されるどころか労働を当然のものとするような態度を取られていました。 ひとえに、彼の生活には自律性がなかったのです。 毒虫になる前から、自己犠牲を主軸とした他者中心的なアイデンティティ形成しかしてできていなかったのです。

 このような生活をしてきたグレゴールにとって、もはや自分の見た目など眼中になく、ただひたすらに社会的評価や義務不履行を恐れる存在になってしまったのです。 風邪の時に自分が現実がよくわからなくなったり、あるいは風邪の引き始めに自身の健康を軽視してタスクに執着するのに似ているように思えます。 一言でまとめると、主人公の冷静さは主体性喪失の最終形であると言えるでしょう。

SFとしての『変身』

 この『変身』は上で述べたような点を除けば、非常にリアリスティックな筆致でたんと毒虫をかかえる家族の様子を描いています。 その様子がSFとして非常に評価でき、人々を惹きこむのだと思いました。 家族(母、父、妹、その他の使用人など)は毒虫に対して各々異なる反応を示していましたが、私にはそれらが、多くの人間に共通して見られる反応類型を代表しているように感じられました。 『変身』がどれほど上手にその様を描いたのかを心理学と照らし合わせながら鑑賞してみることがこの節での目的です。

 妹の反応を道徳的離脱の観点から分析してみたいと思います。 妹は冒頭では世話役として家族内部で能動的に動き、グレゴールのケアを引き受けます。 しかし物語が進むにつれて、彼女の態度は同情から冷淡、攻撃的に移り、「もはや人間ではない」との判断に転じ、最終的に追放を主張する側になります。 この変化の過程を道徳的離脱の観察対象としてみます。

 道徳的離脱は、個人が通常持つ道徳的自制や共感を一時的に放棄し、行為の道徳的評価を弱める心理プロセスのことです。 バンデューラの分類に従えば、非人間化、道徳的正当化、結果の歪曲、婉曲化、責任の転嫁などのメカニズムがあります。 以下では、それぞれのメカニズムが妹の言動にどのようにあらわれるかを照らし合わせてみます。

非人間化

 もっとも容易であり、そして最も悲しく残酷でした。 妹がグレゴールを呼称する仕方や視線の変化に非人間化が読み取れるでしょう。 初期の「兄さん」や「私たちのグレゴール」といった呼び方が、後半には「獣」「これ」といった言葉に置き換わります。 この言葉運びの切り替えは、グレゴール側の感情を一切無視して同情を減殺することで、排除へと向かう心理的敷居を下げています...。

道徳的正当化

 妹と家族が「家計」「家の名誉」「生活の安定」といった大義名分を持ち出す場面は、行為を道徳的に正当化する典型でしょう。 毒虫となったグレゴールを排除する決断を、家族全体の保存という高次の目的に結びつけることで、個別の加害性を相対化し、自己の行為を善意の延長として説明することに成功しています。

結果の歪曲

 妹はグレゴールの内面的苦痛や孤独の深刻さを小さく評価する傾向を示します。 これには共感資源の消耗が寄与するところも大きいでしょう。 ここでいう「結果の歪曲」の「結果」は「兄を排除すれば家族が救われる」になると思います。 この思考が行為の倫理的コストを過小評価させるでしょう。

婉曲化

 直接的な「追放」「死」と語るのではなく、「処分」といった語を用いることで、心理的負担を下げています。 2周目に読んで、これに気が付いたときにはぞっとしました。

比較の誤謬

 可能性としてのもっと残酷な選択肢(社会的破滅や貧困)と比較して自分たちの選択を相対化することで、行為を比較的ましなものとして知覚しようとしています。

責任の転嫁・被害者の非難

 「だって、いったいどうして、これがグレゴール兄さんだって言うの。これがグレゴール兄さんだったら、とっくの昔に、人間とこんな獣との共同生活なんかできっこないと悟って、さっさと自分から出て行ってるわ。(中略)私たちを路頭に迷わすつもりなのよ。」 などのセリフからも伺えます。

寓話としての『変身』

 この物語はやはり何らかの寓話としても受け取ってみたくなります。 私は、(ベタだと思いますが)うつ病のメタファーとして毒虫を受け取りたくなりました。

 まずなんといっても、この物語は「毒虫」を「うつ病」にしても大枠が成立するのが大きな特徴だと思います。 グレゴールは、自分のコントロールが及ばず、突然人生全体を覆ってしまった謎の状態の中でもがき苦しみます。 家族からは異質で醜い存在と見なされ、次第に疎外感や無力感に苛まれてしまいます。 彼は自分自身と、自分がどれほど役に立たなくなったかを恥じ、最終的には身近な人々さえも遠ざけてしまうその一連のプロセスは、まさにうつ病そのものではないかと強く思いました。

 そしてもちろん、うつ病を超えて解釈ができると思います。 ほかの身体障害であっても良いし、あるいはもっと抽象的な概念でも良いです。 例えば、個人が主体性を失うことへの警鐘などです。(これについては、ちょうど同日に本屋で購入したマーク・トウェイン『人間とは何か』を読んでから綴ることにしたいと思います。) むしろ、Kafkaが毒虫の挿絵を許さなかったことも含めて、あえて曖昧に残したことの意味を考えれば、多様な解釈をしていかなければならないとすら思います。 Kafkaの『変身』、面白かったです。