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『森の生活 -ウォールデン-』における菜食主義について

文学 — Henry David Thoreau

 Henry David Thoreau『森の生活 -ウォールデン-』において語られる菜食主義(というより肉食の忌避)について、自分なりの考えを綴ってみます。 いつものごとく、素人の戯言ですから、悪しからず。

 引用部分に関して、青空文庫から引っ張ってきている都合上ページ数の指定などができない状況です。 そのため、ctrl + F での検索などを利用して参照してください。

彼の食肉に対する見解

 Thoreauはしばしば菜食や節制を通じて精神的浄化を説く随筆家として読まれますが、 彼の主張は単なる菜食讃歌に還元できない複雑さを帯びているように感じます。 彼の食に関する随想は、欲望との丁寧な付き合い方を問う試みであると思ったので、今日はそのことについて綴ります。

 Thoreauは肉食に対して明確に距離を置き、時に強い「不潔」の語でその嫌悪を表明しました。 『森の生活 ― ウォールデン ―』を読む限り、彼が肉食を不潔だと考えた理由は大きく3つ存在していたことがうかがえます。

  1. 五感に訴える美的あるいは生理的嫌悪
  2. 功利的判断
  3. 想像力や精神性との不調和をめぐる規範的および宗教的理由

第一の理由は「家をすべての悪臭や穢きたなさからさっぱりと自由にたもつという非常に高価につく企てがはじまるかが解りかけた。」という一文から読み取れるし、これについては一定程度肯定できる気がします。 第二の理由は「わたしの魚をつかまえ、それを清めて料理し、それを食ったところでそれがほんとうに身の養いになったとは思えなかった。それは些細なものであり不必要であり、その得よりも代価の方が高くついた。」という一文に依拠します。 これに関しても、一定程度肯定することができます。

 ここで議論したいのは、第三の理由である想像力や精神性との不調和をめぐる規範的および宗教的理由についてです。 この思想がうかがえる文章を幾らか抜粋します。

  • 「それらのものに害をみとめたというよりは、ただ気持に不快だったからである。」
  • 「動物食の嫌悪は経験の結果ではなく一つの本能である。」
  • 「すべて真剣に自分の高級な、あるいは詩的な機能を最善の状態にたもとうとした人々は特に動物食、そしてすべての過食を避ける傾向があったとわたしは信じる。」
  • 「何ゆえ人間の想像が肉や脂肪と調和できないのか問うのは無駄であろう。わたしは調和できないということを確信している。」

 結局のところ、Thoreauが肉食を忌避する理由のいずれも、その是非はさておき生命そのものの価値に優劣を付けて扱っているように思えます。 「肉食は不潔である」「想像力や精神性と調和しない」という理由は、食べる相手の命の善悪や価値を判断していることに他なりません。 そして、肉食の不潔さや素朴な食事を礼賛するのであればこの点についての説明を与えねばならないはずです。 実際、この点が欠如しているからこそ、菜食主義の経典としてのThoreauの意見は規範とはなり得ず、一随筆の域を出ることはなかったのだと思います。

それは「兆候」であって「本質」ではない

 では我々はThoreauの菜食に対する考えをどのように受け取るべきなのでしょうか。 彼の菜食への姿勢を一言で受け取るとき、重要なのは彼が菜食を「最終目的」や「普遍的道徳」の主張として示しているわけではないという点です。 むしろ彼は菜食を、人間の内面的変化、とりわけ欲望や想像力のあり方の変容を示す一つの兆候として語っています。 本文中の「動物を食うことをやめることは、人類の運命がその徐々たる進歩において当然なすべき一事である」といった箇所は、菜食を文明の方向性や進歩のメタファーとして位置づける発言です。 しかし同時に、彼は「わたし自身の実際はともあれ」などの文章から個々人の実践が必ずしも断絶的な道徳命題に還元されないことも率直に認めています。

 この読みを根拠づける論点を整理すれば、次の三つのようになるでしょう。 第一に、彼は菜食を通じて「欲望の性質」を問題にしている点です。 本文では「われわれは自分のなかの動物を意識している」と自覚し、肉欲的衝動と精神的機能の二重性を明確に描いています。 第二に、菜食は想像力や詩的機能を整える実践として提示されている点です。 想像を反発させないほど単純で清潔な食事を提供することが精神活動と食の調和を意味することがうかがえる。 第三に、彼が社会的・文明的な文脈で菜食が「兆候」として機能することを示唆した点です。 狩猟や釣りが若い時期の洗礼のように自然との接触を促し、やがて「銃と釣竿をすてる」プロセスを通じて精神的志向が育つとする一連の記述は、菜食を個人的修養と社会的進歩の両面で意味づけると読み取れます。

 ここから我々が学ぶべきことは大きく二つあるのではないでしょうか。 ひとつは欲望の区別、すなわち「習慣としての欲望」と「本能としての欲望」を見分けるという技術です。 彼は自分の釣りへの衝動を「本能」として認めつつ、それが年とともに弱まっていく経過を描くことで、欲望は固定不変ではなく制御可能なものであることを示しました。 もうひとつは節制の位置づけ、すなわち、節制を刑罰や禁欲の美徳としてではなく、創造的・精神的活動の条件をつくる手段として捉えることです。 節制は想像力の苗床となりうる、という彼の主張は、食を巡る実践が倫理そのものではなく、倫理的・精神的な能力を育む訓練になり得ることを示唆するし、我々の日常の経験と照らし合わせてみても、それほど相違がありません。

 さらに私見を加えると、彼の立場は両義的であることはこの議論において必要不可欠でしょう。 彼は荒野や若年期の釣り、狩猟の価値を肯定的に語りつつ、同時に「われわれの食事とすべて肉類には何か本質的に不潔なものがある」と述べることで、実践と規範のはざまに立ちました。 つまり、彼の菜食に対する考えは定言命法的ではなく、ある生活態度、すなわち、想像力や精神的機能を重視する態度の外形的な兆候なのです。 だからこそ彼は「われわれの全体の生活はおどろくほど道徳的である」と言い、日常の小さな節制の積み重ねが「より高い法則」への従順を形作ると信じたのではないでしょうか。

 結論として、Thoreauの菜食観は本質よりむしろ兆候の一種と読めることを提案します。 これは彼が食と精神の調和、欲望の自己調整、文明進歩の比喩性を同時に意識していたからであるはずで、 したがって、私たちは彼の言葉を食の是非を単純に断罪する道具としてではなく、欲望と想像力を問うきっかけとして受け取るべきであると、私は思います。

参考文献

  1. Henry David Thoreau 森の生活 ― ウォールデン ―. 青空文庫. https://www.aozora.gr.jp/cards/001209/files/54189_68486.html (参照日:2025年11月28日)。