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仮説:会話の志向に関する幾らかの思索

コミュニケーションなど — 単なる仮説

 人間のコミュニケーションの性向を3分類する方法を思いついたので仮説として紹介してみます。 何か目新しいことを主張したいというわけではなく、身近なコミュニケーションで発生する現象をうまく説明し言語化できるモデルという立ち位置で提示したいです。 根拠があるわけでもない、ただの戯言にすぎません。 言いたいことを無責任に言うだけのメモ帳です...。

志向の3分類

 会話の着地点が、一人称、二人称、三人称のどこにあるのかによってその人のコミュニケーションの性向を分類します。 最初に強く述べておきたいのは、これらについて、優劣を付ける意図はないということです。

 発話や思考の終着点が、発話する本人に向いているような発話志向のことを一人称志向と定義します。 一人称志向によるコミュニケーションの例として、自分語りが挙げられるでしょう。 一般論なども自分事として受け取り、自分についての話に帰着して発話することなどが特徴だと思います。

 この志向は感情処理、アイデンティティ形成、創作的な精神の涵養などに寄与するのではないでしょうか。 自己開示は相手との距離を縮めるのにも役立ちますね。 逆に過剰化すれば、その定義から過度な自分語り、抽象化の拒否、客観視の不足などが現れると考えられます。

 発話や思考の終着点が、会話の相手との関係性の構築・維持に向いているような発話志向のことを二人称志向と定義します。 二人称志向によるコミュニケーションの例として、質問、傾聴などが挙げられるでしょう。

 この志向は共感、配慮、空気読み、対立回避など人間関係を安定させることに大きく寄与するのではないでしょうか。 逆に過剰化すれば、本質先送り、自己主張の萎縮、関係依存などの問題に陥ると考えられます。

 発話や思考の終着点が、一般的な法則や構造の探求といった知的好奇心の充足や、目の前にある三者的な事実に関しての共有などにある発話志向のことを三人称志向と定義します。 三人称志向によるコミュニケーションの例として、興味深い話をする、おもしろい話をする、考察をするなどが挙げられるでしょう。

 この志向は情報共有、客観視な議論などに役立つのではないでしょうか。 一方、過剰化すれば感情軽視、孤立や冷酷であると誤解されるなどのリスクを孕んでいると考えられます。

各人の志向はこれらの割合で決まる

 重要なのは、これらの3志向が完全に独立した離散的な概念ではないということです。 それぞれの人間の中にはすべての志向が大小あれど含まれており、その割合で志向が決まると考えます。 そして、その割合は各人の中でも時と場合によって変動するものであると認識しています。 ただし、その割合の傾向には偏りがあり、それがその人のコミュニケーションの性向を規定しているのではないでしょうか。

 先述の通り、各志向には長所と短所があります。 したがって、適切な場面で適切に割合を制御できることこそが重要になってくると考えます。

考察:「IQが20違うと話が通じない」は正確ではない

 ここからはこの3志向の概念を用いて説明できそうな事象に対して、説明を付与していきたいと思います。

それぞれの志向には相性がある

 それぞれの志向によって相性があると感じたので、述べてみます。

 一人称志向×二人称志向は基本的に相性がよさそうに思えます。 単純に考えると、話し手と聞き手というわかりやすい構図になり、二人称志向側が我慢などをしていない限り、破綻することはないように思えます。

 次に、二人称志向×三人称志向についてです。三人称志向側が提示した話題について、二人称志向側が適切に返答できれば、お互いに満足いく構図になりそうです。 この構図は、明確な不満が貯まりにくい(言語化しやすい不満が貯まりにくい)ですから、言語化できない不満が貯まることはあっても、表立ってトラブルに発展することは少なそうです。  二人称過多と三人称過多の組み合わせの場合は、二人称の返答が無難すぎて三人称との会話が盛り上がらないとかが考えられそうだなと思います。

 三人称志向×一人称志向ですが、これはいかんね。三人称志向側が目の前の相手という個別具体的な対象に興味がない場合はかなりモヤモヤが貯まる構図になると思います。 うまくかみ合えば、創作や語りなどが盛り上がることもあるかもなと思います。 一人称過多と三人称過多の組み合わせの場合は、三人称と一人称の話したい内容がかみ合わずお互いが満足できる可能性は低くなりそうです。

「IQが20違うと話が通じない」は正確ではない

 「IQが20違うと話が通じない」という言説は直感的ですが、冷静に検討すると不正確であると言わざるを得ないでしょう。 IQは認知能力の一側面を示す指標にすぎず、IQ差そのものが直接コミュニケーションの可否を決定するわけではありませんから、当然強すぎる主張をしています。 実際には、会話の目的、前提知識、感情、関係性、そして何よりも志向が大きく影響するという立場からある程度詳細に説明できると感じました。

 より明確に、「会話志向の一致は、話が通じることのおおよその十分条件である」という立場を採って説明してみます。 ここで「話が通じない」を明確にする必要があります。 人が話が通じないという場合、大きく次の二種類に分かれるのではないでしょうか:

  • 話が通じない(A):聞き手が期待する種類・水準の情報を、話し手が提示しない場合
  • 話が通じない(B):話し手は情報を提示しているが、聞き手がそれを理解・解釈できない場合

 この二つはいずれも、話者間で会話志向(一人称的語り、二人称的関係調整、三人称的一般化)が 噛み合っていないときに生じやすいのだと思うと自然ではないでしょうか。 逆に言えば、両者が同じ志向を共有している場合、多少の能力差や知識差があっても、 会話は比較的スムーズに成立すると感じます。

 例えば、客観的な批判を客観的に受け取り改善することを要求する話し手に対して、客観的な批判を自分に対する批判だと捉えて責められているように感じる聞き手という構図は(A),(B)の両パターンに該当し、トラブルを引き起こすでしょう。 あるいは、ひたすらに否定的な意見を言い続けるような方は、おそらく現象そのものへの探求ではなく自己の正当化、すなわち一人称的視点が強いのではないでしょうか。

 もっとも、ここでIQの影響を完全に否定するわけではないです。 一般に、抽象化や一般化を扱う三人称志向とIQとのあいだには、 ある程度の相関が存在すると考えるのが自然でしょう。 本を読むといった活動とも関連しているように思えます。 ただし、再度述べておきたいのは「IQが低いと話が通じない」という単純な因果ではなく、 IQは特定の志向を取るハードルを下げる一因でしかないという位置づけに留まるということです。

 したがって、「話が通じない」現象を理解するためには、 IQ差そのものよりも、会話志向の不一致という構造に注目する方が、 はるかに良い説明が与えられるのだということを提案したいです。

考察:女心が難しいというわけではない

 よく女心が難しいという言説を聞きますが、これを少し改造してみます。

 単に、異なる志向の人との会話は難しいという話であって、特に、性別によって志向の分布に偏りがあるのが主な要因だと考えます。 だから、女心は難しいですし、逆に男心も難しいというわけです。 この難しさは、理解力の欠如でも共感性の欠如でもないのです。 単に、会話がどこに着地すべきかという前提が共有されていないことに起因するだけです。 二人称志向の会話に三人称的応答を返せば、 「話を聞いてもらえなかった」という評価になるのは自然な帰結でしょう。

 ではなぜ志向が社会的立場や文化的基盤と相関があると考えるのでしょうか。 それは、会話志向は生得的に固定された性質ではなく、発達過程において段階的に獲得・調整されるものだと考えるからです。 ここで重要なのは、志向の獲得順序と、その過程に介在する社会的立場や文化的基盤です。

 一人称志向は最も早期に成立するのではないでしょうか。 これは自己の感覚・欲求・経験をそのまま表出する能力であるから、 乳幼児期から一貫して存在するはずです。 次に獲得されるのが二人称志向であり、 これは他者の反応を予測し、関係性を維持・調整する能力に対応するでしょう。 家族関係、学校、同調圧力の強い集団などは、 この志向を強く鍛える環境となりやすいのではないでしょうか。  三人称志向はさらに後段で獲得されると考えて良いでしょう。 個別の経験や関係性を一旦切り離し、 抽象的な法則・一般論・再現可能な構造へと回収する能力は、 教育制度や訓練を通じて初めて安定するのではないでしょうか。 この意味で、発達とは三人称の獲得史であると思えるかもしれません。

 しかし、ここで注意すべきなのは、 三人称志向が優れた志向であり、 他の志向が未熟であるという単線的な発達観に陥ってはならないということです。 実際には、社会的役割によって どの志向が報酬を得やすいかが大きく異なりますから、むしろ三人称志向までを適切に獲得したうえで、それらを使い分けることこそが優れた会話ではないでしょうか。

 少し余談にはなりますが、環境的要因についても考えてみます。 トラウマや個別の環境的要因は、 志向の「獲得」だけでなく「肥大化」や「固定化」に影響すると考えます。 例えば、自己表現が否定され続けた環境では、 一人称志向が萎縮し、 代わりに過剰な二人称志向が形成されやすいなどです。逆に、他者からの要求や感情的介入が過剰だった環境では、 二人称志向そのものが負荷となり、 個人は安全圏として三人称志向へ退避することがあるのではないでしょうか。 この場合、抽象論や一般論は知的関心というよりも、 感情的関与を回避するための防衛機制として機能するという点で少し性質が違うようにも思えますが、どうなんでしょうかね...。 もちろん、特定の志向が強いこと自体を病理化する必要はないという点は注意したいです。 問題となるのは、状況に応じた志向の切り替えが困難になること、 すなわち、ある志向が唯一の生存戦略として固定化されてしまうことだと思います。

 この観点から見ると、 トラウマとは単なる「心の傷」ではなく、 会話志向の可塑性を狭める経験だと捉えることもできるかもしれませんね。 そして、対話の困難さとは、 能力差や性格差というよりも、 異なる獲得史を持つ志向同士が、 互いの前提を共有しないまま衝突している状態なのだと。

 したがって、やはり成熟したコミュニケーションとは、 常に三人称で語ることでも、 常に共感的であることでもなく、 自身の志向の獲得史と偏りを自覚したうえで、 相手と状況に応じて回収点を選び直す能力こそが、 発達の実質的な到達点なのではないでしょうか。

考察:会話志向の偽装は反感を買う

 Twitter(現X)上の炎上案件なども場合によっては、志向で説明できると感じました。

 この種の発話は、論理的誤りや事実誤認がなくとも、 直感的な不快感を引き起こしやすいと思います。 それは、聞き手が期待する会話のマナーが、 発話の途中で密かにすり替えられているからであり、 三人称志向を期待して参加した会話が、 実際には自己弁護や承認要求の場として使われていると気づいた瞬間、 聞き手は操作された感覚を覚えるのだと言語化することができると思います。

 特にインターネット空間では、 会話志向の偽装は強い反感を招く傾向があると感じます。 有名人の謝罪文が言い訳がましい駄文であったとき、より強く炎上する事例は誰もが見たことあると思いますが、 これはまさに三人称志向を装った冷静な謝罪文で、一人称志向が強く出た自己弁護が投稿されるから、前述の理由より不快感を覚えるのです。 この偽装は、意図的な操作というよりも、 志向の獲得史に由来する無自覚な癖である場合も多いと思います...。 例えば、一人称的語りが否定されやすい環境で育った人は、 自己主張を正当化するために、 三人称的形式を借りることを学習するでしょう。 しかしその結果、発話の終着点が不透明になり、 他者からは不誠実さとして知覚される悲しい結末をたどってしまうわけです。

おわりに

 とまぁ根拠もなしに好き放題言いましたが、この志向という枠組みを用いて自分の日々のコミュニケーションを客観視し、より良いものにできたらよいなと思います。 あとは単純に良い言語化の一つであると思っているので、積極的に検証して精度を上げていきたいと思います。