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粘り強さの涵養と一般入試

大学入試 - 一般入試についてのお気持ち表明

 一般入試には、回避不能な努力を訓練する役割があるよねということを示唆する文章を書いてみました。 この文章が苦行の正当化と自己弁護に過ぎないといわれてしまえばそれまでかもしれませんが、この言説にどのような意図があろうとも主張内容の妥当性とは独立していると思っているので、私の意図を汲まずに、文章だけを見てみてほしいです。

(以下の議論でGritという概念を持ち出すべきだったかは正確にはわかりません。 誠実性、一貫性、忍耐などでも良かったかもしれません。 あるいはもっと別の概念でも...。)

一般入試は我々の粘り強さを底上げしてくれるはずだ

 現代教育において、「粘り強さ」は十分に涵養されていないのではないでしょうか。 心理的安全性や多様性への配慮が強調される一方で、回避することのできない負荷を意味のある目標に結びつけ、長期にわたる努力を要求する制度的装置は確実に後退してきたように思います。 私が中学生だった頃のことです。 冬休み明け、宿題として提出された書初めが廊下に掲示されたシチュエーション。 その際、提出し忘れた生徒が特定されないよう、名前順ではなく無作為な順序に並べ替えるための時間が、わざわざ設けられていました。 その光景を、私は今でも覚えています。 こうした経験を踏まえるなら、現代教育に欠けつつある「回避不能な努力」をめぐる議論の文脈で、 そうした努力を養う場面を再評価する主張が登場することは、決して不自然なことではないでしょう。 とりわけ、ここではその機会として大学受験の一般入試を提案したいと思います。

 大学受験は、大学への進学を志す学生であれば、原則として誰もが通過する共通の出来事です。 多くの学生はこの試験に向けて、数か月、場合によっては年単位に及ぶ学習を積み重ねることになります。 その過程で求められるのは、目の前の課題を日々着実にこなす実行力だけではありません。 限られた時間を見据えて学習計画を立て、それを修正しながら継続する能力、さらには結果が保証されない状況においても一定の覚悟をもって学習への関心と緊張感を保ち続ける力が不可欠となります。 こうした一連の経験を通じて、大学受験は学生に長期的努力への耐性、すなわち粘り強さを要求し、結果としてそれを涵養する契機として機能してきたはずでしょう。

 このような文脈で理解すると、大学受験が求める粘り強さは「Grit(やり抜く力)」にほぼ対応していることがわかります。 Gritとは、長期的な目標に対して情熱を維持し、困難に直面しても努力を継続する能力を指す概念です(Duckworth, 2016)。 つまり、日々の学習を計画的に積み重ね、試験までの長期間にわたって関心と努力を持続させる大学受験の経験は、Gritを実践的に要求する場として機能していると考えられます。 実際、縦断的研究では、Gritの高い学生ほど大学受験模試の得点や成績向上に優位性を示すことが報告されています(京都大学研究ニュース, 2022)。 こうした知見は、大学受験が単なる学力の選抜手段にとどまらず、学生に長期的努力と粘り強さを体験的に要求する教育的装置としての意義を持つことを示唆していると言っても良いと思います。

 したがって、一般入試を「回避不能な努力」の文脈で再評価するとき、私はそれが少なくとも三つの異なるかかわり方を通じてGritと関連し得ると考えます。 第一は選抜効果であり、元来Gritの高い者が合格しやすいという帰結です。 第二は涵養の可能性であり、受験準備という長期的な学習過程が計画性や持続的努力といったGritの要素を強化し得るという点です。 第三は制度的適応であり、予備校や家庭といった外部市場が受験というフォーマットに適応することで、社会全体としてGritを要請する行動様式を生み出すという構造的効果です。 現状では各効果の相対的寄与を断定するための因果的証拠は限定的だが(私が調べられていないだけの可能性も高い)、 一般入試が単なる学力選抜を超え、個人の経験と教育環境に長期努力を要求する「社会的圧力装置」として機能し得るという観点は検討に値するのではないでしょうか。

想定される反対意見への返答

 まず確認すべきは、一般入試を「優れた教育制度」として擁護する議論は脆弱だという点です。 一般入試の本質は教育ではなく選抜にあり、粘り強さを育てるために設計された制度ではないです。 この教育目的と選抜目的の混同は、一般入試擁護論の最大の弱点となるかもしれません。 ただし、一般入試が「粘り強さを育てる」制度ではなく、「粘り強さを要求する」制度であると位置づけ直すならば、評価は大きく変わると思うのです。 教育が十分に育てきれなかった能力を、社会への移行段階で事後的に要求する装置として、一般入試は一定の役割を果たしてきたはずです。

 次に、「一般入試=粘り強さ」という単線的理解への批判がなされるかもしれません。 確かに、一般入試が鍛えるのは主として学業的・認知的な粘り強さであり、粘り強さ一般を代表するものではありません。 しかし、ここでの論点は粘り強さの完全な測定や育成ではないです。 問題は、回避不能で、長期的努力を要し、全国的に標準化された「粘り強さを要求する機会」が他にほとんど存在しないという現実です。 その意味で一般入試は、最善の制度ではなくとも、現実的に稼働している数少ない装置であり、消去法的に参照されているにすぎません。

 また、一般入試の負荷が社会階層によって歪むという批判がなされたのなら、それは本質的でしょう。 家庭の経済力や文化資本によって、負荷は緩和されたり外注されたりしうるとも思います。 この問題は否定できません。 しかし重要なのは、これは一般入試に固有の欠陥ではなく、現行の他の入試制度にも同様、あるいはそれ以上に存在するという点です。 特に推薦や総合型選抜では、階層差が活動歴や言語能力といった「見えにくい形」で拡大しやすいでしょう。 したがって、一般入試の評価は絶対的善悪ではなく、「どの制度がまだ相対的に透明で共通フォーマットを保っているか」という比較の中で行われるべきであると思います。

 一般入試が「苦行」であることに意味を後付けしていないか、という疑念も重要でしょう。 これに関して、私は一般入試に向けて勉強をした側の立場であるから、意見を言うことは難しいかもしれません。 ただし、一般入試の価値は、個々の学習内容に本質的意味があるというよりも、苦行を引き受けること自体に社会的合意が与えられてきた点にあると思います。 一方、大学進学の価値が相対化する現在、その合意は不安定になりつつあり、この脆さは正面から引き受けねばならない問題です。

 最後に、一般入試の強化が疲弊や戦略的回避を招くという懸念について、日本社会の特異性も考慮すべきですかね。 日本の学歴社会はアメリカのように名門とそれ以外に二分されるのではなく、緩やかな序列のグラデーションで構成されているそうです(竹内, 2016)。 そのため、完全な回避よりも「どこかに入る」戦略が選ばれやすい構造になっています。 ただし同時に、資源を持つ上位層ほど浪人や併願、推薦併用によって負荷を最適化できるという非対称性も存在します。 この点は一般入試の限界であり、同時に制度全体の問題でもあるでしょう。

 以上を踏まえると、一般入試は理想的な制度ではないことは明白です。 しかし、現代教育が失いつつある「回避不能な努力を社会として要求する共通フォーマット」という観点から見れば、一般入試はそれほど悪くないとも思えるはずです。 問題は一般入試を守るか否かではなく、社会が努力を要求する制度をどこまで維持する覚悟があるのか、という点にあります。 一般入試をめぐる議論は、その覚悟を問い返す装置としてこそ、意味を持っていると思いました。

参考文献

[1] Duckworth, A. (2016). Grit: The Power of Passion and Perseverance. Simon & Schuster.
[2] 京都大学研究ニュース (2022). 「グリット(Grit)の2つの側面が大学受験模試に及ぼす影響」
URL: https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research-news/2022-02-28
[3] 竹内洋(2016)『日本のメリトクラシー:構造と心性』東京大学出版会