文字と絵の境界線
文字について - 絵との境界線
まず断っておくと、いつものごとくここでの私の言葉に学術的な裏取りはなく、日常の些細な感覚を言語化したものにすぎないものです...。
ときどきTwitterなどでネタにされがちな𰻞𰻞麺の「𰻞」という字は、たしかに文字である以前に、その字形をまず捉えざるを得ないように感じられます。 すなわち、「𰻞」はもはや文字ではなく絵のように機能しているような気がしました。 ここから出発して、なぜ文字が絵に見えるのか、文字と絵の差異はどこにあるのかを縦横広く浅く考えてみたいと思います。
なぜ「文字」ではなく「絵」だと感じたのか
第一に、視覚的密度が高すぎるという点です。 いくらなんでもギャグすぎる字形だと思います。 一般に我々が文字として即座に処理する記号は、抽象化と簡略化を経ています。 ところが「𰻞」は膨らんだ筆致や複数の構成要素が重なり、ひと目で音や意味へと直結しません。 読むというより見る行為が先に来ます。 眼差しは意味を思い返す作業から解放され、その文字そのものの装飾や形態の豊穣さの虜になるのです。 これは絵を見るときの心の動きと同じではないでしょうか。
第二に、その非規範性です。 日常の文字列は習慣的に読み飛ばされますが、稀な或いは創作的な字形はその慣習の枠を逸脱するため、 認知が字の読み方を要求せず、形そのものを注視します。 つまり、文字の中にある規約(線の配置、部首の役割、筆順)よりも、線の痕跡や重なり、陰影といった要素の方が目立って見えるのです。 描かれたものとしての存在感が、記号としての機能を一時的に凌駕するのだと思います。
第三に、情動的な反応です。 絵はしばしば直接的な感情や想像を喚起するのと同様に、奇妙な字形は異物感を呼び起こします。 たとえば𰻞𰻞麺を想像するとき、味覚や音のイメージが先行するのではなく、まず最初に異物感が飛び込んでくるのです。 これは大きな特徴と言っても良いと思います。
文字と絵の境界線
文字と絵は厳密には区別可能だが、その境界は連続的でしょう。 以下、幾つかの観点からその輪郭の一部を明らかにしてみたいと思います。
まず、記号性と象徴性です。 文字は約束事に基づく記号です。 線は音や意味へのゲートでしょうか。 絵は象徴であり得るが、同時に独立した存在でもあります。 したがって、文字は解読を、絵は鑑賞を要求すると言えるでしょう。 しかし、稀な字形は前者のゲートを閉じ、後者の鑑賞へと誘います。
次に、可逆性(読み手の役割)という概念を導入したいです。 文字は可逆的なルールを持ち、読み手はそのルールに従って解読します。 絵は多義であり、観る者それぞれが意味を付与します。 𰻞のような字は読み手にルールを与えにくく、鑑賞者の解釈が前景化するため、絵に近づくと言えるでしょう。 個人的に、文字と絵を区別する概念としての可逆性はかなり驚きのある発見でした。 気に入ったので、もう少し日常生活で検証して、色々と考えてみたいと思います。
第三に、空間性と時間性でしょう。 文字は横並び、連続という時間的展開を前提に働きます。 それに対して、絵は空間に即して同時に全体を呈示します。 𰻞は一幅の絵のように空間的に凝縮され、瞬間的に「これがある」と示されるため、時間的解読より空間的把握が勝るという視点も考えられると思います。
最後に触覚的想像力です。筆跡が近いかもしれません。 絵は素材の質感を提示することが多いです。 同様に、豪快な字形は筆圧や筆運びの痕跡をより強く残し、触覚的想像を誘います。 「これは掻き出された」「塗り重ねられた」といった感覚は、文字という無機質な冷たいシステム性とは違う性質を持つように思えます。
つまり...?
結論めいた総括を書き起こす気にはなれませんでした。 代わりに最後にもう少しだけ綴りたいと思います。
文字が絵になる瞬間は、言語の粗密に穴が開き、見ることが読むことを凌駕するときだと思います。 その穴は不在の言葉を埋める想像を招き、読む者と見る者の境界を曖昧にしてくれます。 「𰻞」はまさにその穴のかたちであり、我々はそこに自分の感性を投げ入れて遊ぶことができるはずです。 実際、紙に何度も「𰻞」を書いて、あるいは描いて遊ぶ営みはとても楽しかったです。 これとは別件ですが、俳句と言語についても似たような視点で綴ってみたいことがあります。いずれ綴ると思います。 それでは、また。