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経験機械としてのYouTube Shorts

ロバート・ノージック - 経験機械

 ロバート・ノージックの経験機械の議論を借りて、ショート動画否定論を書いてみたいと思います。 ただの趣味です。

YouTube Shortsは部分的に経験機械だ

 哲学者ロバート・ノージックは著書『Anarchy, State, and Utopia』(1974)において「経験機械(Experience Machine)」という思考実験を提示しました。 これは、人間の幸福や人生の価値が単なる快い経験に還元できるのかを問うための装置です。 もし脳に直接刺激を与えることで、現実と区別できない幸福な経験を一生味わえる機械があるとしたら、人はそれに接続すべきでしょうか。 快楽主義が正しいなら答えは「はい」であるはずですが、多くの人は直感的に「入りたくない」と感じますし、私もそうです。 ノージックはこの直感を根拠に、人間は単なる経験以上のもの、すなわち実際に何かをすること、ある種の人格であること、そして現実世界との接触を価値あるものとしていると主張しました。

 しかし、昨今のメディア情勢に改めて注目してみると、私たちはこの入りたくないはずの機械に、YouTube Shortsという形態で自ら接続し始めているように見えます。 このショート動画という形態は、私たちが現実世界で何かを達成したり、誰かと深く関わったりする際に生じる「面倒なプロセス」をすべて削ぎ落とし、脳が最も効率的に喜ぶ「結果としての刺激」だけを抽出して連続的に供給します。 指先一つで次々と切り替わる15秒~60秒程度の断片的な動画は、まさにノージックが想定した「脳に直接差し込まれる電極」の現代的で洗練された代替物と言えるでしょう。 そしてこれは個人の時間の浪費という問題を越え、社会全体が「経験さえ良ければ、その背景にある実体はどうでもよい」という全般的な快楽主義へと傾倒している兆候のように思えてなりません。

 多くの人が、ショート動画をスクロールする指を止められない自分に対し、どこかで「こんなことをしている場合ではない」という微かな焦燥感、あるいは「また時間を浪費してしまったorz」といった後悔を感じているでしょう。 この違和感こそ、ノージックが指摘した「経験以外に、私たちにとって重要な何か」が損なわれていることへの本能的な警報だと思います。 我々はもっと内なる自分の訴えに目を向けたほうが良いです。

失われる生

 第一に、私たちは単に経験することではなく、実際に何かをしたいと願っています。YouTube Shortsの世界では、他者が成し遂げた挑戦(ピンポン玉でめっちゃ奇跡起こすやつとか)や、数千時間の修練の末のパフォーマンスが、わずか数秒の「快感」として消費されます。 そこには、実際に自分の身体を動かし、環境に働きかけ、壁に突き当たるという行為のプロセスが完全に欠落しています。 私たちは、世界に対して何の影響力も持たない受動的な受容体へと退行し、自らの人生を主体的に構築する機会を、細切れの疑似体験と引き換えに手放しているのです。 これ自体は、ショート動画に限らず存在する性質ですが、危惧すべきはその頻度でしょう。 圧倒的な吸引力のサムネで、本来であればほかに創造的なことができた時間を全てショート動画につぎ込んでしまうことこそが危険だと思います。 (Blenderをやりたいのに、BlenderのTips動画を見て満足することとかがそうでしょうか。)

 第二に、私たちはある種の人格でありたいという欲求を持っています。 経験機械の中に漂う脳は、外から見ればただの肉の塊に過ぎず、そこには固有の性格も徳も存在しません。 アルゴリズムが個人の嗜好を分析し、絶え間なく最適化された刺激を供給し続けるタイムラインに身を委ねるとき、私たちは「自分はどのような人間でありたいか」という自己形成の意志を放棄しています。 自らの選択や葛藤を通じて人格を磨くことをやめ、外部から与えられる刺激に反応するだけの存在になることは、ノージックが危惧した「中身のない浮遊する脳」に限りなく近づくことを意味します。

 第三に、私たちは人工的な現実を超えた深い現実との接触を求めています。YouTube Shortsによって得られる世界は、視聴維持率を高めるために極限まで(アルゴリズムによって)計算され、編集された世界です。 そこには、ドーパミンドパドパ以外の指標は何もありません。 ノージックは、人間にとって現実そのものと繋がっていることが不可欠であると説きました。 鏡張りの部屋のように自分の欲望だけを反射し続けるデジタルな虚構の中に安住することは、私たちが生きる世界の広がりを自ら狭め、生の手応えを失わせることに他なりません。

 社会全体が、手軽でコストの低い快楽を最大化することに最適化されていく中で、私たちは低い努力で得られる目先の快楽ばかりを追い求め、その根底にある生の実体(Substance)を軽視し始めています。YouTube Shortsを見続ける充足感の背後にある空虚さは、私たちが生を失いかけていることへの、魂の叫びではないでしょうか。 ノージックが示した通り、人生において重要なのはいかに感じたかだけではありません。 私たちは、不器用であっても自らの手で何かをなし、自分という人格を築き上げ、そして何より、誰かに設計されたのではない剥き出しの現実に触れていたいと願う存在であるはずです。 今、私たちがなすべきは、アルゴリズムという電極を引き抜き、自力でこの世界へ帰ってくることではないでしょうか...。

参考文献

[1] ロバート・ノージック著 ; 嶋津格訳(1992)『アナーキー・国家・ユートピア : 国家の正当性とその限界』木鐸社