SNSは人を他人の採点者にする
SNSの話 - 疲れる理由を考えてみる
SNSが本来なら限定的・局所的・一時的だった人間の発話を、文脈から切り離して大規模かつ継続的に評価可能な対象へ変えてしまい、その結果として、 他人を絶えず評価することを余儀なくされるということを書いてみようと思う。よくある「他人に評価されるから疲れる」と似つつも少し違った方向性での話である。
SNSでの違和感
まずは、SNSでしばしば見かける、ちょっと違和感のある考え方をいくつか挙げてみる。 どれも単体で見れば、よくあるクソリプや炎上の一場面にすぎないが、これらを並べてみると、ある共通した傾向が見えてくる。
- 「発言の公共性」と「発言が到達可能であること」は同じである
- 文脈を補う義務は無限に発生する
- 「アカウント」=「一貫した人格・思想体系」という思い込み
- 「みんな怒っている」=「怒ることが正当である」
-- 「公衆に到達した」ことと「公衆に向けて発言した」ことを区別しない人が多い 受け手が「自分に向けられた公共的発言だ」と錯覚することが多い。
-- 「私に向けて発言したのなら、私に分かるように説明しろ」「誤解させないように書け」「前提を説明しろ」という要求などもよく見られる。
-- バズった人は必ずしもバズを望んでいた人ではない。
-- 「誤読された」=「書き手が悪い」というような発想で、無限に文脈を補うことを要求し続けることができると考える人もいる。
-- 発言に対する責任だけでなく、他者の解釈にまで責任を持つことを求める人がいる。
-- 本来複雑な人間を「こういう立場の人」と単一のラベルで固定化することで、その他人を「手軽に評価・採点できる対象」へ仕立て上げてしまう。
-- 「常に一貫しているべきだ」という前提を置き、本来なら忘却される過去の発言を掘り起こして矛盾を指摘することが容易になる。
-- 集団の感情に同調することで、批判することが容易になる。
他人を評価する
これら自体は、単なるクソリプあるあるにすぎないかもしれない。 そもそもこんなクソリプが溢れていおるSNSはそりゃ大変だという気もしてくる。 ただ、問題の本質はそこではない。 真に問題なのは、SNSが評価・反応されやすい発言を大量に可視化する構造になっているために、結果として怒りや断罪を含むコミュニケーションが過剰に目に入るということである。 自分とは本来関係のなかった他人の感情や発言、炎上をアルゴリズムによって大量に浴びせられ続ける。 これが「怒りで動く世界」をテーマにした童話などあれば、そこそこ面白かったのだが これはすでに現実に存在するのだからなんとも悲しい。
クソリプをする人は、あるいは僕たちは(あるいは僕たちの無意識的な領域は)SNS上の他人の発言を、(いいねにせよ、怒れるかどうかにせよ)あまりにも「自分が評価するべきもの」として見すぎているのではないだろうか。 正確には、他人の発言を、自分が態度を決めるべき対象として受け取りすぎているのではないだろうか。 最初に挙げた違和感はまさにこのことの現れだと思う。 日常生活で他人の発言に対していちいち自分のスタンスを表明していたら、とてもじゃないがコミュニケーションにならない。 ところがSNSのインターフェースとアルゴリズムは、他人の発言を(正の評価であるいいねにせよ、負の評価であるクソリプや引用にせよ)評価対象として受け取ることを非常に容易にする。 そう考えると、投稿の横のいいね、リツイート、リプライはよく練られたものである。
恒常的に他人を評価するというのは、大変苦しい。
発言の公共性
評価の話以外にもうひとつ。違和感で最初に述べた発言の公共性についてである。 ここについては、SNSという空間そのものが少し特殊なのではないかと思っている。 SNSは、どうも「公共空間」であるようでいて、同時にかなり「私的な空間」でもある。 そして、この両方の性質を併せ持つことがいろいろなややこしさを生んでいるのではないだろうか。
たとえば、僕が自分のアカウントで、ある友人に話しかけるようなつもりで「今日のこの映画、めちゃくちゃ面白かったな」と書いたとする。 それをたまたまアルゴリズムが拾って、何万人もの人間のタイムラインに流したとする。 このとき、その発言は果たして公共的な発言なのだろうか。 技術的には、もちろん誰でも読める。 しかし、発話者の感覚としては、ある程度自分の生活圏の中での発話であったりする。 逆に、企業の公式アカウントが商品について発表する文章なら、これは最初から不特定多数に向けた公共的な発言だと考えてよいだろう。 その文章には、読み手に正確に情報を伝えること自体が目的として含まれているので、「もっと誤解のないように書くべきだった」という批判も成立しやすい。 つまり、「SNSに投稿された」という一点だけを見ても、その投稿がどの程度公共的なのかは分からない。 同じタイムライン上に、企業の声明も、政治家の演説も、知人への独り言も、どうでもいい昼飯の報告も、見るに耐えない自分語りも全部同じような見た目で並んでしまう。 これはなかなか恐ろしいことなのではないか。
僕たちは、見た目の上では同じツイートという形式をしているものに対して、同じ種類の読み方をしてしまいやすい。 前章でSNSという構造そのものが人を恒常的に評価する者へと変容させる性質があると述べたが、この私的な発言と公共的な発言の混同とは相性が最悪ではないだろうか。 評価する必要のないものまで評価してしまいかねないのだ。 SNSに適応するというのは、単に「ネットリテラシーを身につける」とか、「炎上に巻き込まれないようにする」といった話ではないように思える。 本当は、同じ画面に並んでいる文章をすべて同じ種類の発言ではないと理解して処理する能力のことなのではないだろうか。 また、人によってこの理解度が異なり、多種多様な振る舞いがあると理解することではないだろうか。 でも、そんなことを毎回意識しながらSNSを見るのは、単純に疲れる。 「これは公共的な発言だから厳密に読もう」「これは私的な独り言だから流そう」「これは自分に向けられたものではないから関わらなくていい」などと、一つ一つ判断していたら、それだけでかなりの精神的コストがかかる。 ましてやSNSは、こちらにそんな悠長な判断をさせる前に、次の投稿をどんどん送り込んでくる。 そう考えると、僕がSNSを疲れると感じていたのも、ある意味では当然だったのかもしれない。
人に恒常的な採点を強いる空間も、それによって引き出される見苦しい振る舞いも、それを加速させるアルゴリズムも、やっぱり心地よいものではない。